アニエス・ヴァルダが問う『幸福』
1965年製作/80分/フランス
原題:Le Bonheur
配給:ザジフィルムズ
日本初公開:1966年6月4日
監督・脚本:アニエス・ヴァルダ
製作:マグ・ボダール
撮影:ジャン・ラビエ クロード・ボーソレイユ
音楽:ジャン=ミシェル・デュファイ
出演:ジャン=クロード・ドルオー、クレール・ドルオー、マリー=フランス・ボワイエ、サンドリーヌ・ドルオー、オリビエ・ドルオー
ヌーヴェルヴァーグの祖母といわれるアニエス・ヴァルダ監督の『幸福(しあわせ)』を始めて見たときは衝撃を受けた。本作で扱われているのはありふれた“妻子ある男の不倫”だが、その扱われ方はよくあるものではなかったからだ。これほど官能的でない不倫映画を、私はほかに観たことがない。
映像の面では、絵画的な風景や原色使い、赤と青の対比や状況を表す看板文字などが目を引く。クラシック音楽はほとんど知らないが、本作で使用されている、のどかでありながら悲哀や陰影を含むようなモーツァルトの楽曲は、本作の本質を突くような選曲だと思う。
あらすじ
叔父のもとで働く内装職人のフランソワ(ジャン=クロード・ドルオー)は妻のテレーズ(クレール・ドルオー)と二人の子どもたちと仲睦まじく暮らしている。裕福でないにしろ生活に不満はなく、幸福な日々を送っている。
ある日出張先で、郵便局の窓口にいたエミリー(マリー=フランス・ボワイエ)を見初めてカフェに誘う。その後、偶然エミリーがフランソワの住む街に引っ越して来て、二人は逢瀬を重ねるようになる。
そんな関係がひと月ほど続いたある日、いつもの家族のピクニックの際、フランソワがテレーズに、ほかに愛している女性がいることを打ち明ける。
テレーズという名前の印象
個人的な印象だが、テレーズといえば『嘆きのテレーズ』(1953)や『テレーズの罪』(2012)などのせいか、死や犯罪のイメージがつきまとう。どちらも映像作品は見ていないのだが、それぞれ原作のエミール・ゾラ著『テレーズ・ラカン』(1868年刊)とフランソワ・モーリヤック著『テレーズ・デスケルウ』(1927年刊)は読んでいる。前者に至っては19世紀の作品だが、現代的な問題を含んでいて、今読んでも面白いと思う。
これらの印象が強いため、フィクションの中のテレーズという女性が何事もなく幸福でいられる気がしない。『幸福(しあわせ)』と題された本作の、明るく優しく気のいい妻の名前がテレーズなのもおそらく偶然ではないと思う。
テレーズ・ラカンもテレーズ・デスケルウも自身の行動によって物語を動かす。本作のテレーズはどうだろうか。
(以下、内容に触れますのでご注意ください)
「愛している」という空虚な言葉
夫と子どもたちを愛し、世話をし、洋服の仕立ての仕事をするテレーズには何も問題はなく、フランソワもそんなテレーズを愛していると言う。浮気の原因など見当たらない。発端は、申し分ない生活の中、フランソワが“出張先で可愛い子に出会った”というだけのことなのだ。
フランソワがエミリの部屋に初めて行った時、初めてのキスの後、エミリが言う。「私“も”愛してる」。しかしここでフランソワはエミリに「愛している」とは言っていない。ただ見つめてキスしただけだ。
時に恋はこのように判断を誤らせる。現実を見ずに期待が先走り、自分が思うこと/感じることを現実と思ってしまう。言われてもいないことを聞いてしまうのだ。のちにフランソワもエミリに「愛している」と言うことにはなる。しかしアニエス・ヴァルダ監督はこのシーンでは言わせなかった。それによって、私たちはハッとするのだ。恋がいかに独りよがりなものなのかを知って。
エミリと深い関係になってからも、フランソワは悪びれることなくエミリに向かって「妻を愛している」と言う。最初からそう言っていたし、納得づくで始まった関係だから、彼にとっては隠す必要のない気持ちなのだ。しかも彼曰く、“自分は嘘のつけない男”なのである。だからエミリにも「愛している」と言う。
妻を愛している。彼女は僕に喜びをくれる。君と出会って、君を愛する。二人とも僕に喜びをくれる。幸せが重なっていく。
妻と結婚したのは妻と先に出会ったからだ。君と先に出会えば君と結婚していた。君に嘘はつけない。こうなったのは僕のせいじゃない。順番なんだ。
テレーズは植物で、君は自由な動物だ。僕は両方愛している。
エミリとのピロートークで、フランソワが嬉々として“愛”と言っているものの正体はなんなのだろうかと、私たちは考えずにはいられない。フランソワはエミリについて性的魅力のことしか語らないし、エミリにもテレーズにも「愛している」「幸せだ」とは言うが、その言葉の中身については何も言わない。彼が愛していると繰り返すほど、私たちはその言葉の空虚さに寒々しくなるのである。
いずれにせよこのシーンでのフランソワは間違いなく“幸福”そうで、それに対してどう思ったらいいのか、私たちは(少なくとも私は)困惑する。
その後のシーンでアニエス・ヴァルダ監督は、散歩中のフランソワとテレーズに非常にアイロニカルな会話をさせている。好きなものは毎日でも食べたい、ポテトフライにチョコレート、そして君は二番目のデザートだ、と言うフランソワに対し、「メニューに変化は必要よ」とテレーズに言わせているのである。言われなくてもフランソワは、すでにメニューに変化を加えていたというわけだ。
子どものような男
テレーズと一緒に行くのは最後になってしまうピクニックで、フランソワが「最高だ。ここは本当に最高だ。何も考えたくないね」と言うが、これも皮肉といえば皮肉だ。フランソワは最初から(そしておそらく最後まで)何も考えていない。考えていないからこそこんな風に生きられるのだ。もしも何か考えているとしたら自分の幸福のことだけに違いない。
フランソワにとって幸福とはつまり安寧であり、子どもでいられる状態のことだ。あれが好きでこれも好き、と言って誰からも咎められない、食べたいときに食べたいものを食べられる生活である。
「ぼくは本当にとても幸せだ」と言い、あまりに幸福そうなフランソワに、テレーズがその理由を尋ねる。フランソワは“嘘がつけない”から全てを打ち明けてしまう。
僕たち家族はりんご畑にいる。でもその外にもりんごの木はあり、実がなっている… こんな例え話でテレーズはすべてを悟る。
「誰かあなたを愛している人がいるのね、私のように」
フランソワは「君のようにではないよ」と言い、続いてめちゃくちゃな例え話で愛人との関係を続けられるようテレーズを説得しようとする。仕切りに「わかるかい?」と確認しながら。
当然ながら「わからないわ、そんなこと」と言うテレーズに、フランソワは「君がやめて欲しいというなら彼女とは会わないよ、君に幸せでいて欲しいんだ、僕と一緒に」と言いつつ、でも、と続ける。「愛を禁じるのは馬鹿げてるだろ? これまで通り、いやこれまで以上に僕を愛してくれるかい?」
たぶんできると思う、と、テレーズがなんとなく説得されたような形になり、ひとまずこの件はうまく収まったかに見えた。
テレーズの虚しい選択
収まったかには見えたが、よく考えればフランソワの言い分は身勝手極まりなく(しかも変な例え話で煙に巻くような非常に不誠実なやり方だ)、その理不尽さに観ているこちらの腹が立ってくる。一体何を考えてるんだ、と。しかし、繰り返しになるが、彼は何も考えていないのだ。そこが彼のすごいところ/強いところなのである。
何も考えていないからこそ、この後すぐ溺死するテレーズの、その死を一通り悼んだ後、早々に、エミリを新たな妻として迎え(後添いという言葉がこれほどピッタリくる状況はそうない気がする)、テレーズと一緒だった頃と寸分違わぬような生活を続けることができるのだ。
残念ながら本作のテレーズは、死を持ってしても物語を動かすことができなかったのかもしれない。何も考えていない者を前にしたテレーズは無力な存在だったのだ。
何も考えていない者は、いとも簡単に幸福を感じることができる。フランソワは幸福だ。昨日も今日も、そしておそらく明日も。
アニエス・ヴァルダ監督が本作で見せてくれる身も蓋もない現実によって、私たちは「幸福」の意味を改めて問い直すことになるだろう。
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